教養力就活

ライバルに3歩差をつける、就活(とキャリア)に役立つ教養っぽい話

元締めモデルという戦略/遣唐使と電通の共通点

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学校の歴史の授業で、誰でも一度は聞いたことがあろう、遣唐使貿易。894年に菅原道真によって正式に廃止されるまでの間、中国や、中国を通した世界の先進的な文物(美術品や思想、文化、社会制度などなど)を手に入れる意義があった、と教わっているかと思いますが、重要なのはその先です。

遣唐使貿易の当初から、時の政権は国家による独占をルールとしていました。後半や廃止後は、民間人や一部の貴族が勝手に売買をするようになりかなりグダグダでしたが、それでも国はかたくなに、まず国が手に入れて、そこから国内に流通させるという元締めモデルを守ろうとしました。それは、一つには、先進国の珍しい物品の希少価値を高めるための商業上の戦略を意味しました。国家ルート以外から物品が入って来てしまうと、そこで価格競争が起きてしまい、高い値で売りつけることがしにくくなるため、それは避けたかったというわけです。

もう一つには、文化や情報の中心を担うことによる、政権の権威化を狙うという意味がありました。地方勢力をまだ抑え込みきれていなかった当時、安定的な統治(各勢力の囲い込み)には、政権の権威と正当性がとても重要だったのです。

時代が下って平清盛の時代に行われた日宗貿易においても、今度は貨幣経済の独占という観点から、幕府が独占的に宋銭を輸入し、経済を牛耳ることになります。大陸との貿易には、このように国家による元締め戦略の思惑が色濃く窺えます。

この元締めモデルを民間で巧みに使って成功したのが、広告代理店の電通です。TVの広告枠をほぼ独占し、実質的な元締め役となった電通は、TVメディアの発達と歩調を合わせて牙城を築きます。そんな電通ですが、webメディア・webコンテンツが急速に伸びていき、マスメディアの「衰退」がささやかれた2010年付近で、その神話へ疑いの目が向けられます。つまり、webメディアというのはTVメディアと違って無限に増殖させることができ、従って独占不可能であるため、電通の独占モデルが崩壊するという論です。

しかしそうした論を唱える評論家や財界人は、「マス広告枠の独占」という<結果>だけを見ていて、「メディア/コンテンツの元締め」という<発想>を見ていませんでした。初期に手をつけて他の参入を阻む元締めさえできれば、電通の強みが損なわれることは無いのです。実際、世界陸上AKBなど、枠から作ってその元締めをするというビジネスは今でも健在です。webメディアは無限増殖するから独占できないと言われましたが、例えばiAdのように、「iPhone/iPadのためのweb広告空間」という囲いを作ってしまえば、その中での元締めはできるわけです。(電通グループは2011年にAppleとパートナーシップ契約を結び、iPhoneiPadに表示されるすべての広告の販売・制作を電通が担当することになりました。)<独占>よりも<元締め>という感覚があったからこそ、こうしたできたのではないでしょうか。

以上、遣唐使貿易と電通を「元締め」という観点から見てみました。ほとんどの企業は、新しい製品、新しいサービス、新しいコンテンツを、自ら生み出すことを目指していますが、いかにそれらの元締め役に回るかというのが、モノと情報が氾濫する現代を生き抜く、新戦略の一つかもしれません。

「動物化」というエンターテイメント/文化人類学が語るビジネスチャンス

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ジュワジュワと音を立ててながら、どぶりとタレの海にダイブしたるつくね。もっちりとした弾力を内側に秘めながら、カリッとした皮の上で肉汁が踊る鳥皮。それらをばくりと口にほうばって・・・。そんな焼き鳥の魅力は、いったいどこから来るのでしょう。その鍵は、「礼儀作法」の歴史にありそうです。

 

私たちが普段何気なく使う「食事のマナー」というのは、いったいいつからできたかご存知でしょうか。西洋に限って言えば、16世紀、ヨーロッパの宮廷社会がその源流とされています(ノルベルト・アリエスの論文を基準にすればですが)。ヨーロッパの近世においては、社会のエリート階層だった貴族たちはその性質を大きく変容させつつありました。それまでは騎士としての貴族、つまり武家貴族だったのが、戦闘が減り、廷臣としての貴族、つまり宮廷人としての貴族に変わりつつあったということです。そうした中で、エリートとしての彼らは他の階級との差別化を、武力以外の面で行う必要がありました。日本において、江戸時代の武士が、戦国武将のような勇猛さや豪傑さよりも、精神を自ら律し、教養を高めることをよしとされたのと似ています。そしてこのあたりから、「礼儀作法」という概念が起こりました。17世紀後半から18世紀後半にフランスで一部の民衆も含めベストセラーになった『礼儀作法書』では、「動物の流儀から遠ざかる」ことが美徳であるとされていました。スープの皿に覆いかぶさるようにしてピチャピチャと飲むのは豚のようだとされ、肉のこびりついた骨をしゃぶるのは犬のようだとされ、「ほかの動物に仲間入りしたほうがよい」と糾弾されました。そして、この「礼儀作法(civilite,シヴィリテ)」という言葉が、「文明化(=civilisation,シヴィリザシオン)」の語源となりました。つまり、動物性を排除していくことこそが、文明化であり、絶対善とされ、今日の「食事のマナー」につながっているわけです。

さて、これを踏まえてもう一度焼き鳥を見てみると、その食べ方は明らかに「動物的」と言えます。串とそれに刺さった鶏肉は、動物の骨に着いたままの肉と構造的に相似しています。そして食器は使わず、口を直接運びます。焼き鳥にがぶりと食らいつくときのあの幸福感は、暗黙のうちにタブー化されてきた、動物性を解放することから来ているのかもしれません。焼き鳥をナイフとフォークでお行儀よく食べても、たぶん美味しくありません。片や、同じく「手で持ってかぶりつく」という行為を伴うフライドチキンや、ハンバーガー、おにぎりにも、不思議と焼き鳥と同じようなシズルがあります。


食べ物に限らず、スプラッシュマウンテンと水浴びの関係だって、「動物性の復活」で説明できそうです。はたまた、裸足になって泥の上を歩いたり、畑に入ることは、どうしてあんなに気持ちがいいんでしょう。(裸足で畑に入ったことのある人は分かると思いますが、自分は今本当に、大地に立ってるぞ!という感覚を覚えます。)「文明化」されたものを、「動物化」する。そうすると、そのこと自体がエンターテイメントとして成立します。「動物化」という領域には、サバンナのごとく広大なマーケットが、まだまだ眠っているかもしれません。

 

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なぜ、就活とキャリアに「教養」が役立つのか

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教養を語れるほど自分が立派な人間ではないことは重々承知で、ファーストポストとして、まずはこのブログの意図をまとめておきたいと思います。

さて、日本では、教養(Liberal Arts)というと日々の生活やビジネスには役に立たない、「ちょっと高尚な雑学」くらいにしか思われていないことが非常に多いです。確かに、戦国時代の興亡の歴史を詳しく知っていたところで、合コンでその知識をそのまま披露してもドン引きされるのが関の山でしょうし、積分のやり方を知っていたところで、資料の納期が伸びるわけでもありません。

しかし、武田信玄の緩急付けた巧みな攻め方・守り方を応用して、合コンの場であえて自分を下げたり、仲間と一緒に株を上げたりと、正面切って自分を売り込むよりもずっと効果的な方法で相手の気を引くことができるかもしれません。積分は、(厳密にはちょっと違いますけど)曲線に囲まれた図形を近似した<無限の長方形の集合体>に変換することで、計算できなかったものを計算できるようにする手法だということを理解していれば、「この作業、真面目にやるのとほぼほぼ同等の、しかももっとラクな作業で代替できないかな」というように発想を転換できるかもしれません。

つまり、教養というのは、それ自体はわりと使い物にならなくても、それを応用することで物事の見方を劇的に進化させられる素材だということです。ある知識体系の奥に潜む高次の「考え方」が肝だということです。そういう意味では、ロジカルシンキングの文脈で言うフレームワークのように、様々な個別の問題に応用して使うことができます。本質的であることほど、応用可能生が高いことを考えれば、よく言われる「教養は物事の本質を見極める眼を育む」という話も納得できると思います。

私が通っていた大学は、全員2年次まで教養課程で学ばされて、3年次から学部に進学することができます。当時は正直「めんどくさいなー」と思っていましたが、いざ学部に進学してから、そして社会に出てから、教養がめっっっっっっちゃ役に立つことに気づき、「もっと貪欲にいろんな授業を受けていればな」と後悔した覚えがあります。ハーバード大学の竹内弘高教授などは、「いまの日本のリーダーには、ゴルフとニュースの話しかできない人がいる」と発言されていて、その発言をしたある会合の場に居合わせた大手企業の人事担当役員は、苦笑いしたといいます。(すみません、ソースがどこだったか忘れました。)

ちなみに、スティーブ・ジョブズやハーバート・ケレハー(サウスウェスト航空創業者)、ロバート・ノイズ(インテル創業者)などもリベラルアーツ・カレッジで学んでいます。実際、スティーブ・ジョブズは1996年のnpr(アメリカ公共ラジオ局)のインタビューで、以下のコメントをしています。

“It’s in Apple’s DNA that technology alone is not enough — it’s technology married with liberal arts, married with the humanities, that yields us the result that makes our heart sing…”

 テクノロジーだけでは不十分で、テクノロジーが教養と結びつくこと、ヒューマニティーと結びつくことで初めて、心躍るものを創り出せるとのこと。絶対王者IBMを凌駕していったアップルの歴史やプロダクトを見れば、アップル信者でなくとも、大きな示唆を感じるのではないでしょうか。

 

就活の場面で言えば、教養は、面接官にどう自分をアピールするかということにも使えますし、もう一つ、話の引き出しや発想力をものすごく強化してくれます。 広告クリエイターなら誰でも知っている(はずの)名著『アイデアのつくり方(A Technique for Producing Ideas)』の中で、ジェームズW.ヤングは「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」と、アイデアを定義しています。要素の組み合わせが斬新であればあるほど、そこから生まれるアイデアも斬新なものになるというわけです。

教養は応用可能範囲の広い知なため、全く異分野の知識同士を化学反応させる、絶好の素材になります。なので、グループワークなどに対して「自分にはクリエイティビティが無い」「才能が無いからぜんぜんひらめかない」という人にこそ、教養という武器は本当におすすめです。「学生時代のすごいエピソードとか無い!どうしよう・・・」と心配な学生さんは、むしろ人とは違うプレゼンテーションができるチャンスだと考えた方がいいと思います。(実際、面接する側も「学生時代に1,000人規模のイベントを成功させました」だの、「バイトでお客様に感謝されました」だの、そういう類のありがちな話に、正直うんざりしています。過去の大したことない武勇伝より、未来への可能性を感じさせる、引き出しの多さや新しい視点を持っていることのほうが、ずっと魅力的です。)

と、いうわけで、「お前何様やねん」というくらい偉そうなことを書きましたが、正直、教養を深めることは私自身の課題でもあります。なのでこのブログでは、自分の備忘録や情報を主体的に取りに行くモチベーションを保つ口実として、書いていこうかと思います。ただ、現在企業の採用コミュニケーションのお仕事をしている関係で、社会に先に出た人間として、就活生の方々にちょっとでも役に立つものが提供できたらなと思ったりもして、主に学生の方向けに始めました。ご興味を持たれたら、暇なときにでも読んでいただければ、励みになります。

 

(画像出典:KMUG